志野長方皿

岐阜県美濃地域の美濃桃山陶“志野”〜歴史と特徴〜

 岐阜県美濃地域の伝統的な焼き物の美濃桃山陶の一つ「志野」は、その歴史と独特の製法で知られています。志野は、1590年前後に中国や朝鮮半島からの影響を受けつつ、美濃地域独自の文化の中で繁栄しました。今回は、志野の起源から隆興を極めた安土桃山時代、そして一度は途絶えてしまった志野が昭和に荒川豊蔵によって再現され現代に至るまでの歴史を簡単にまとめました。また、志野に用いる原料やその特徴についても触れ、志野の魅力をお伝えしたいと思います。

<目次>

1,志野の歴史

1-1,志野の起源

1-2,安土桃山時代の美濃地域と志野の盛衰

1-3,昭和の荒川豊蔵による志野復興

2,志野の特徴

2-1,志野の特徴

2-2,志野の原料の一つ「もぐさ土」

 

志野の小皿

1,志野の歴史

1-1,志野の起源

 志野の出現の経緯は、まだはっきりわかっていない点が多くあります。

 どうやら1590年前後から、現在の志野に用いられている長石秞(に似ている釉薬)を用いた茶碗が国内でつくられたようです。

そもそも、やきものは中国から朝鮮半島を経由して日本に伝わってきました。やきものそのものが持ち込まれただけではありません。やきものに適する土を見つけ出す技術、温度の上がる構造の窯をつくる技術、焼成の加減を見極める技術。やきものをつくる工程の全ては技術を持つ人(陶工)そのものの移動によってもたらされました。

 作陶の技術が伝えられ、古代から日本国内でもやきものは作り続けられてきました。しかし、日本でも中国で作られるような青磁(白い器)を作りたいと試行錯誤しますが、当時は作ることができませんでした。美濃地域では、現在の愛知県猿投(さなげ)で灰釉陶(植物を焼いた灰を原料にした釉薬)が生産され、施釉陶器は中世以降も猿投周辺の瀬戸や美濃近辺で作り続けられました。安土桃山時代には、効率的に窯の焼成温度を上げることができるようになり、それまでは溶かすことができなかった長石を釉薬として使うことができるようになりました。長石釉を使って(青磁の再現とはなりませんでしたが)白い器を作れるようになったのです。「志野」という名前の語源は「シロ」だという説があるほど、当時は白い器を作ることが難しかったようです。高温の窯で長時間焼成できるようになったことで、志野が作られるようになりました。

 

1-2,安土桃山時代の美濃地域と志野の盛衰

 陶芸技術の発展に加え、社会・文化的な時流も美濃地域の陶芸を興隆させました。安土桃山時代(室町幕府が滅亡した1573年から関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利を収めた1600年までの期間)は、およそ30年間という短さですが、織田信長や豊臣秀吉といった武将たちの強大な権力のもと、豪華絢爛な桃山文化が誕生、発展しました。権力者たちの集まる場として「茶の湯」も栄華を極め、茶陶の発展につながりました。また、豊臣秀吉の朝鮮出兵により朝鮮から製陶技術が国内に入ってきたことも、国内の製陶技術の進歩に繋がっています。国宝となっている志野茶碗「卯花墻(うのはながき)」も、桃山時代の代表的な名碗です。千利休の後継者として、古田織部が茶陶プロデューサーのような役を果たし、美濃で「織部好み」と呼ばれる当時斬新な紋様や形のスタイルを追求し、破調の美を確立しました。茶陶の産地として、美濃で多くの茶陶が作られました。しかし江戸時代に入って古田織部の死後、茶の湯の王道は京都へと移っていき、美濃地域の茶陶は衰退を余儀なくされました。志野の生産も途絶えてしまったのです。

 江戸時代以降、美濃地域では人口の多い大都市江戸の民衆向けに日常食器や生活雑器を大量生産、大量出荷しました。江戸時代末期には磁器の生産も始まります。他地域との競合や生産コスト削減のため製品別分業制をとり生産性も上がり、鉄道の普及もあり美濃の陶器製品は全国へ流通するようになりました。昭和になると機械化も一層進んで大量生産が可能になり、現在の陶磁器食器類国内生産の約半数を担う美濃焼へと繋がっていきます。

 

1-3,昭和の荒川豊蔵による志野復興

 昭和初期まで、安土桃山時代当時の志野は現在の愛知県瀬戸地域で作られていたと考えられていました。しかし1930(昭和5)年、荒川豊蔵が現在の岐阜県可児市久々利の古窯跡で、徳川家に伝わる「竹の子文志野筒茶碗 玉川」と同じ筍絵の志野の陶片を発見し、志野は美濃で作られていたことがわかります。荒川豊蔵はその後、久々利の大萱古窯跡の近くに自身の工房と穴窯を作り、出土される古い陶片を頼りに、志野や瀬戸黒、黄瀬戸などといった美濃桃山陶の再現に心血を注ぎ、再現を果たしました。1955(昭和30)年には、志野と瀬戸黒で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。久々利大萱の窯は、現在は荒川豊蔵資料館となっています。荒川豊蔵が収集した古陶や作品の展示や作陶工房の見学、秋には窯の特別公開も行われます。

 

志野湯呑

2,志野の特徴

2-1,志野の特徴

志野(志野焼)は、岐阜県美濃地域で生産されている「美濃桃山陶」の一種です。

 志野は、もぐさ土と呼ばれる土を混ぜた粘土で形作ったものに長石釉をかけて焼いた器です。

 志野は、主に長石という石を細かく砕いた原料を釉薬に用います。長石釉は融点が高いため、窯で高温かつ長時間の焼成が必要です。粘度の高い釉薬で、出来上がりはぽってりとした厚みのある乳白色となります。焼く際に釉薬が縮むことで、ぽつぽつとした柚子肌になったり、しわのような模様(梅花皮:かいらぎ)が出たりしやすいのも志野の特徴です。釉薬のかかり方が薄い部分は、下の生地(粘土)の赤っぽい色が透けて見えます。土の緋色(土に含まれる鉄分が酸化した朱色っぽい色)と釉薬の乳白色との柔らかな風合いは器ごとに異なり、一つひとつ豊かな表情をみせてくれます。

 

2-2,志野の原料の一つ「もぐさ土」

 もぐさ土は岐阜県美濃地域で採取される土で、砂と粘土の中間的な質感が特徴です。粘土に比べて粒子同士のくっつきが強くないので、独特のさっくりとした風合いが出ます。またその特徴から、分厚く成形しても見た目ほど重くはなりません。粘土にもぐさ土を混ぜるとさくさくとした生地になるため、熱の伝わり方が緩やかで、志野の湯呑に熱いお茶を入れても「湯呑が熱くて持てない!」ということが起きにくく、両手で湯呑を持つとお茶の温かさと湯呑のほどよい重さが感じられます。

 

志野皿

 さいごに

 志野の歴史と特徴について、簡単ですがまとめてみました。志野の魅力は、もぐさ土と長石秞が生む独特の風合いにあります。さらに、豪華な桃山文化の中で茶の湯の発展とともに志野が生まれ愛されてきた歴史を知ることで、一つの志野の器がもつ、美濃地域の豊かな自然と文化、作り手の技術と思いを感じて頂けたらと思います。

 

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